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にくらしいもの/img水木(墓場鬼太郎)

触れてみる撫でてみる離してみる抱きしめる
憎んでみる憐れんでみる恐れてみる愛してる

そんな想いをしてみたいなんて夢を見るより夢のよう







「お前ももうそろそろいい年なんだから…そろそろ身を固めてもいいんじゃないかい?」
母に心配されるのが日課
「固めてもいいけれど、こんな安月給じゃ来てくれる人もなかなかいないんだよ」
これは本当のこと
「それに仕事が忙しいし、出会いなんてそんなに転がっているもんじゃないから」
これは詭弁、見合い話が無いわけでもない
「それに俺、子ども苦手だし、まだ身を固めるつもりは無いよ」
多分、本当のこと
子どもとの付き合い方なんて、ましてや親になるだなんて想像もつかない
「ごちそうさま、おやすみ」
「ちょっと、ちゃんと聞きなさい!…」
膳を片付けてそそくさと部屋を出る
毎日の事だから母もそれ以上小言を押し付けてこない

確かに、花の無い毎日
若いと言うには少し経った、面倒な仕事も任せられる
上手く片付けられれば昇進、駄目なら見送り
それで年月が過ぎていく、パッとした話だけ周ってこない
何事も上手く行きすぎないよう、世間は上手くできている、と思うことにしている
それなりの仕事、それなりの給料、上がる年齢、上がる物価、我慢するか精進するかの二択
それに気がつかないよう、ぼやきつつ日々を過ごす
嫁をもらうだとか、孫の顔を見せるだとか
それは高級な理想だよ、母さん
それでも、世間って言うのはうるさいものらしい
部長が持ちかけてくる見合い話をかろうじてかわし、明日に備える
父のいない今でも大変だと言うのに、これ以上飯を食う口ばかり増やしてどうするつもりだ
夏まで間が無い梅雨空は、星も月も隠し夜空に覆いかぶさる
毎日のやり取りのはずの小言が、この時期の空気のように鬱陶しく耳に張り付いている
「わかっているさ」
毎日ひとつ吐くため息さえ決められた事のよう
人並みの幸福とやらは、簡単には得難いと
思い知らされてどれくらいだろう
それとも、今の仕事を解決できたなら全ては思うとおり運ぶのだろうか
「…幽霊の血…、ねぇ」
突拍子も無さすぎる話だ、社長様
皆目見当つかないと回ってきたお鉢、手がかりの住所、面倒な事にうちの近所
まだ見ぬ隣人は探し人
「これは何だ、好機なのか?…」
独り言が増えた気がして、慌てて電気を消す
眠ってしまえ、幽霊の話など夏が終われば同じように消えるだろう

トン トン トン

夜の扉をノックする
(何の音?)
(風の音、ああよかった)
(雨の音、ああよかった)
(お化けの音?)

いやな汗で現に戻る、小さい頃のわらべ歌が頭の奥でなっている


トン トン トン
コン バン ハ

気のせいではなかった、こんな夜中に気味の悪い
けれど何者か確かめねばなるまい
今、家を守れるのは俺だけだ

「こんな夜中に、どなたですか?」
そろりと扉を開ける、誰もいない、考えすぎだったのだろう
無用心に鍵をかけそびれた扉が風に煽られたのだろう
(風の音、ああよかった)
幽霊の話なんて聞かされたからだ、と汗に濡れた髪を手櫛で梳かす
びっしょり濡れていていやになる、ばかばかしい
ばかばかしい仕事を大真面目に押し付ける社長も、毎日飽きず呪文のように小言を繰り返す母もいやになる
そして、そこから逃れられない自分自身にも
いっそ本当に化け物でもいたほうが気が楽だ
湿気と暑さの中苛立ちが募り、異臭に気がつくのに遅れた
「血の臭い…?」
鼻の奥に生臭い空気が絡みつく
漂ってくる方向に目をやる
(お化けの音?)
梅雨空が稲光を纏う、どうやら本降りになったらしい
その光の中、見慣れない小箱に気がつく
「なんだ、やっぱり誰か来ていたんだな」
言い聞かせるよう独り言を吐く
明かり取りの窓から入り込む光ゆらゆら足元に這う影を震わせる
(雨の音、雨の音、ああよかった)
蓋を開けると
目玉と視線が交差した

(お化けの音、)
(逃げろ!)
目が覚めればいつものさえない日々が待っている
明日もため息を一日の終わりにひとつつくのだ
これ以上の不幸は来ないとひとつつくのだ
さえない日々に逃げるのだ、退屈な日々に帰るのだ、さあ






(隣に引っ越してきたものです、これからよろしく)






遠のく意識の中で冗談のように朗らかな声を聞いた気がした


◇◇◇


にくらしいものよ ゆいいつのものよ
わたしが とわに まもるから
だからどうか おそれずに 
だからどうか ここからさきを
ちちもははもいなくとも






生きた幽霊、生きているのだから幽霊ではないだろう
嵐の夜に訪ねてきたのは確かに隣人であり
いや、隣霊とでも言い直すべきか
とにかく奇妙な隣人は仕事の探し人で
その任務を遂行しないでほしいと言ってきた
彼らにとって穏やかな日々自体が幸福なのだと、そう言った
俺は自分と同じかそれより不幸なものに同情し
そして心からの涙を見せられ
世間にもまれ、磨り減り、小さくなった良心を動かされた
「子どもの顔を見たいのです」
切なる願い
少しだけ羨やんだ
肩を抱き、肩を貸し
まるで一つの生き物のように幽霊夫妻はこちらを見つめる
子どもを産む希望
深く理解はできなかったが、皆目見当もつかないことではなかった
しかし何よりこの奇妙な出来事に蓋をして見えないようにしてしまいたかったのだ
調査、と言う仕事なら時間がかかるのは当然だろう
しばらくの間なら会社を辞めさせられることも無い
いつもと同じ日々が戻ってくる
一日の終わりにため息をふたつつけばいいだけだ
幽霊に祟られ命を落とすか
会社を首になり路頭に迷うか
どちらも選びたくない
「なら、その子どもが生まれるまで黙っていましょう」
二択で足りぬなら三つ目の選択肢を
「ありがとうございます、お礼としてこの猫の目玉を受けとってください」
どうやら先日の贈り物は嫌がらせではなかったようだ
苦笑いさえ浮かべられずそこから走り去った

梅雨が通り過ぎ、蝉時雨が止み、秋雨が押し流して、景色は速度を増し移ろっていく
夢のように日々は流れる

冷たい空気が頬を撫でる頃、社長に件の話を持ち出された
どうやら覚えていたらしい
蓋を開ける時が来た
今度は何と目が合うのか憂鬱だ
無事に子どもが生まれ、あの場所から消えていろ
「発見しましたが、すでにいずこかへ消え去った後でした」
そう、
隣人とは奇妙であろうが平凡であろうが
面倒を押し付けさえしなければ善き人なのだ
けれど、世間は上手く行かないよう、上手くできているのを忘れていた
ケリをつけなかったことには体外ツケがついてくる
隣人の姿を見なくなって八ヶ月
彼らは姿を変えそこにいた
「死んで、いる…」
罪悪感よりも、安堵よりも、哀れみが勝った
死んだものはそれ以上恐れることはない、
薄気味悪さと死体の状態の悪さに妻の方だけ墓を立てた
墓を立てようと言う哀れみの中には、明日のわが身が映っていたのかもしれない

彼らの願いは叶わなかった





社長には見つからなかったと報告した
もう、彼らも彼らの血族もどこを探しても出て来ないのだから


◇◇◇
恋のような醜いものではありません
愛のような大層なものではありません
触れれば暖かく抱きしめれば手に入らない
ここにいると泣き叫ぶ声を一番最初に聞いただけ









社長に怪訝な目をされ、また一つため息をつく生活に戻ってから三日
隣人はやはり善き人ではなかったようだ
「墓場から赤ん坊の声がするようだけど」
母の言葉に思い当たる節しかなく、凍える夜を墓場に向かう

頬を撫でた冷たい風は嵐になった
嵐の中で泣き叫ぶ声が響いた
それは恐ろしいものだった
それは力強いものだった
死者の股を割り鬼が来る
赤子が大きく息を吸う

化け物は災いを呼ぶよ
退屈な日々なんて一瞬で吹き飛ばされるよ
やってくるのは不幸な日々だよ
土砂降りの雨が気持ちを逸らせる
鳴り響く雷鳴が恐怖を助長する
恐ろしい気持ちが恐ろしい思考を呼ぶ
「殺してしまおう、何をされるかわからない」
墓場から這い出した小さな生き物に手をかける力を込める
けれども、
見つめるふたつの目は生気に満ち
今にも壊れてしまいそうな小さな小さな体は

「…殺せない」

確かに確かに暖かく
ただ
哀れみより恐ろしい気持ちが勝り赤子を放り投げてその場を後にした
鈍い音がして、泣き叫ぶ声が大きくなった気がした
気がしただけ、と思うことにした
雨の音が何もかも消した














それからどうやって家にたどり着いたかまるで覚えていないが
夜が更け嵐が遠のき
冷たい雨の音が耳に入るようになった頃
先ほどの赤子が部屋に入り込んできた
…片方の目で俺を見つめた
手によじ登ってきた小さな体はやはり
確かに確かに暖かかった
逃げる気の失せた大きな体から長く深く息が漏れた
いつものため息とは違うように思えた

「思えば哀れな子どもだ」

化け物は退屈なさえない日々を吹き飛ばし
代わり、父となる日々を用意した
逃げ道はもはや無いようだった
恐ろしい気がしていた
悪くないような気がしていた
よくわからない涙が出た

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